あ、やっちった・・
そう思うことはよくあるのだけれど・・
やってみてから襲う後悔には、強弱があって、
その強弱の度具合っていうのは
やっぱり、やってみて、分かる・・やってみて、知れる・・
結構たいしたことないことなのに
後悔の度具合が、強かったりして・・
そんなことも、知る。
そしてその、後悔という思いを引き離したくて
生み出した現実をなんとかしようともがいたりして
で、知るわけだ。
もがく、というその思いも、知る。
後悔を知り、もがきを知り、
だから、人の知は「やっちまった」ことで膨張をつづける。
その膨張は、個人的な知の膨張でありつつ、共感性の膨張であり、
いわゆる知ったかぶりとしての知識の膨張とは
レベルが違う。
骨身に沁み、骨身を削る、そんな知、なのだ。
知の道という地の道、これからも踏んでずっと歩くと思うと
やんなっちゃうな・・
やんなっちゃうけれど、この道、
人は、生命体は、何億年も何兆年も、歩いてんだよな・・
仕方ねえか・・歩くか・・
と思いました。