初体験

あれは、夜だった。幼稚園に入園するよりも前の、幼児な僕だった。

 

学年で4つ離れた弟は、まだこの世にいなかった。

 

その時僕は、川の字に敷かれた布団のひとつに、仰向けで寝ていた。布団に入っているのは僕だけだった。部屋の電気は消されていたが、襖で隔てられた隣の部屋の電気はついていて、その襖は少し、開いていたから、暗いけれど、一人で寝ていても安心できる程度の暗さだった。

 

寝ていた部屋も隣の部屋も、和室だった。

 

目は開いていた。

 

たぶん、暗くてうっすらとした天井の模様でも、じーっと眺めていたんだと思う。僕は寝床に入ると、天井を眺めるのが好きだった。天井を眺めるために、寝床に入る・・そんな感じの就寝前の日々だった。

 

仰向けの僕の頭の左、人ひとりの身長分くらい離れたところ・・畳の上に、白い服を着た女性が立っていた。部屋が薄暗かったのもあって、その人物の顔ははっきりとは見えなかった・・しかし、僕はその女性が、母親であると思った。

 

・・そんなところに立って、どうしたんだろ・・そう思っていた。

 

僕は体を横向きにして、「おかあさん」

 

女性に声をかけた。返事がない。「おかあさん」

 

もう一度、声をかけた。反応がない。

 

(おかあさん、どうしちゃったんだ?)

 

そんなことを思いながら、体を女性とは反対の、光差し込む襖側に反転させた・・襖の向こうの和室の鏡台の前で、母が就寝前のナイトクリームを、顔に塗っているのが見えた・・あれ?

 

僕は体を女性に向きなおした・・白い服の女性は、立っていた・・そして、その白い姿が少しずつ薄くなり、消えた。

 

(おかあさんじゃなかったんだ)

 

そう思いながら、眠った。「気持ちよく」眠った。

 

たぶん・・それが僕の記憶にある、初めての霊体験・・

 

 

霊は実在する・・それは、信じるか信じないか、の問題ではなく、経験として、その実在を僕が疑えない

 

経験を経ずに、「ある」とされるものを信じるのは、虚実信仰だと思う。

 

 

・・たとえば・・野菜・・

 

野菜というものを、食べたことも見たこともない人に、「この世には野菜畑というものがある」と言っても、それは、その人にとっては、信じるか否かの問題になってしまう。

しかしその人が、キャベツを目にし、そして、それを口に入れたとして・・そして、

 

「この世には、この、草の色に似たキャベツという野菜以外にも、太陽みたいな色の瓜という黄色い野菜や、人間の血のように赤いトマト、という野菜もある」と言われたら、その人は、その無限に広がる「野菜ワールド」の実在を疑わないだろう。

 

それと同じで、僕は無限に広がる「霊の世界」を疑わない。

 

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僕は、10代の後半から20代の中盤にかけて、唯物論的世界観に基づく世界変革を目指した運動に参加していた。その過程で読んだ、カール・マルクスの著書は素晴らしく情熱的で、特に『資本論』執筆以前の、いわゆる「初期マルクス」と言われる著書の群れ・・論理的でありながら文学的でもある思想の開陳は、僕の血をさらに赤くさせた。

 

しかし、その運動参加の過程、僕はマルクスより、ゲオルク・ヘーゲルにハマっていた。

 

マルクスは、所詮、ヘーゲルの亜流にすぎない・・とすら思っていた。

 

「世界精神」「絶対知」・・こんな、それだけ見ればただの「なにそれ?」的な単語にすぎないヘーゲルの言葉に、僕は、「気持ちよく」なってた。

 

絶対知・・無限を知る・・五感に制約されない知覚・・その知覚世界は実在する・・

 

その世界の知覚の扉が初めて僕に開かれたのが、僕にとってはあの夜で、開かれた扉、その「気持ちよさ」を、あの白い服の女性は僕にもたらしてくれた。

 

あの白い女性は、あの時、すぐそこにいた。

 

霊の世界は、すぐ「ここ」にある。