親が子供を叩くとき

都が、親の、子への体罰を防止する条例の審議を始めた。抑止効果はあるが、根本解決にはならない。医療に喩えれば、対症療法と根治療法の違いだ。

 

子供は弱者であり、親子の関係でいえば、子供は、親に依存している。信頼でなく、依存だ。依存において、生きていられるからだ。

 

親が子供を叩くとき、子供は、弱者から奴隷に変わる。奴隷は主人の所有物であり、生かすも殺すも、主人次第だ。

 

親が子供を叩くとき、子供は人間ではなくなっている。

 

子供は、奴隷として虐げられた屈辱を知るべきだ。

 

都の条例審議のきっかけとなったとされている、目黒区の、父親の、結愛さんへの虐待・・僕は、この父親を、非難、できない。

 

なぜなら、僕も、子供を叩いたからだ。

 

一例をあげるなら、

 

長女、現在高1。長女が結愛さんと同じくらいの、年齢のとき、自宅でピアノを弾く長女の頭を、バシバシ叩いた。「そうじゃねえだろ」って怒鳴り散らしながら。

 

叩かれた勢いで、長女は顔面を鍵盤に撃ちつけ、鼻血を出したこともあった。

 

現在、長女は音高に通っている。最近、ピアノが好きになったそうだ。親しくしてくれている先輩の影響だ。長女の奏でるピアノの音は、奴隷の悲鳴から人間の歓喜に、変わりつつあるのだ。先輩、ありがとう。

 

さっきも、夕方の民放テレビのニュースで、母親と、同居の男が、おねしょした罰として、少女の手首を縛って水風呂に入れさせた・・との、傷害容疑での逮捕報道。

 

同じだ。

 

僕の、娘への暴力と、この母親、そして、男の行為は、同じだ。

 

暴力は連鎖する。強者が弱者を暴力をもって奴隷にする・・主人としての自己確認、その達成感に、強者は酔うのだ。

 

酔う・・感情の問題だ。酔ってしまう。内から湧き上がる感情に、憑依される。弱者を奴隷化して、言うことをきかせたい、主人としての感情に、憑依されるのだ。

 

主人、君主・・歴史上、どんな名君も、一皮むけば暴君だ。

 

昔の親は、子供を当たり前に叩いた・・と言われる。昔の親と、今の、子供を死に至らしめる親と、違う・・今の親は、行き過ぎてしまう・・そう、言われる。

 

同じだ。昔の親も、今の親も、理由は「しつけ」だ。そして実態は、強者が弱者を奴隷にすることだ。

 

僕も、親には叩かれた。教師にも、叩かれた。しつけのため?僕のため?・・そんなものは、叩かれて、感じたことは一度もない。叩かずには晴れない鬱憤の解消として、儀礼的に叩かれていたのだ。親にも、教師にも。

 

屈辱を、知るべきだ。屈辱の連鎖を、知るべきだ。屈辱の感情に、憑依されるべきだ。自分が受けた屈辱を知り、自分がもたらした屈辱を知るべきだ。

 

そこに、親の、子供への暴力、その連鎖の根本解決への糸口がある。

 

歴史の教科書は、強者の歴史・主人の歴史・権力者の歴史の羅列をやめるべきだ。

 

主人のいるところ、奴隷が必ずいる。奴隷のいるところ、必ず主人がいる。コインの表裏だ。

 

歴史の教科書は、弱者の歴史、奴隷の歴史、屈辱の歴史に、全面的に書き換えるべきだ。

 

審議に入っただけでも、都の条例は、抑止として、意味がある。

 

抑止は我慢をもたらす。我慢は歪みをもたらす。根本解決にはならない。