ポエトリー『死と知』

一昨日の夜中、久しぶりな感じで、シングルベッドを二つくっつけて並べている寝室の寝床に眠った。隣には長男、その隣には次男、その隣には女房が寝ていた。

 

人の一生の三分の一は睡眠、とされていて、人は死において魂が体から離れると、その三分の一の時間を費やして、自分のその人生を回顧する、らしい。

 

人生逆回しの映像を見ながら、人生を反省する、らしい。

 

僕はしつらえられた寝床に寝るより、床に寝るのが好きで、体をあずける布団なりベッドなりの弾力に違和感を感じるように僕の体はできているみたい。だから、ほぼほぼ僕の寝床は日々、弾力のないフローリングの床、なのだけれど・・

 

一昨日の夜中、久しぶりに弾力の寝床で寝ていて、夢の中、バチンと音がして・・夢の中の僕は視力を失った。光を失った夢の中で、僕は焦っていた。光を探していた。そして目覚めてベッドから抜け、フローリングに横たえた。

 

硬い床が安心する。安心しながら、視力を失った夢の意味を考えたりしていた。瞼を閉じたらこのまま視力を失うかもしれない・・そんな恐怖を感じていて、だからこのまま眠らないでいようと思っていたのだけれど、自然と瞼は下りようとしていた。

 

「君には人生を回顧する時間が必要なんだよ、もっと」・・そんな目に見えぬ威力が、瞼を閉じまいとする僕の意志よりはるかに強かったんだと思う。僕の意志など、得体のしれない威力の前に、完全無力だ。気づいたら朝で、生ごみ収集日の朝で、収集時間は過ぎていて、試しに収集場所を外にでて見てみたら(ああ、収集車、やっぱりもう行っちゃったか)

 

だった。

 

で・・そのこととは関係ないけれど、You Tubeにアップしたポエム、です。

 

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『死と知』

 

人は必ず死ぬと、僕が知ったのはいつのことだか分からない。自分は必ず死ぬと知ったのは、いつのことだか分からない。

 

死とはとっても個人的で、私(わたくし)的なものなのだ。他人の死を知ることが自分の死を知ることにはつながらない。ただ、自分は必ずいつか死ぬ、と、その必然を知るに過ぎない。

 

人は自分の死を知らない。人は死を知らない。

 

ソクラテスいわくのプラトンの言説を読んでも、心霊主義者(スピリチュアリスト)によるあの世の解説を聞かされても、それは『死の知』に至るものではない。

 

僕はプラトンも、本物の心霊主義者のその知識も、否定しない。ただ、本物と出会えるのは稀だとは思う。本物は、なかなか表には出てこなくて、本物ぶった偽物が跋扈するのは世の常だからだ。本物は存在する。偽物は跋扈する。

 

人は自分の顔を知らず、しかし鏡に映った自分の顔を本物の自分の顔だと疑わないように、人は偽物に騙されやすい。本物を知ることと、死を知ることは、同じなのだ。

 

騙されているなかでの安心。その安心の裏には不安がある。安心は、常に不安に脅かされている。笑顔の裏に、怯えがある。

 

生きることは死ぬこと。現在と未来はパラレルに共存している。安心と不安はパラレルに共存している。未来の必然はここにある。不安はいつも、ここにある。

 

それは死を知らぬがゆえの不安、と言える。

 

死とは個人的なものである。私(わたくし)的なものである。私(わたくし)を知れば、それは死を知るに等しい。私(し)は死に等しい。

 

私(わたくし)は・・どこにいる?

私(わたし)は・・どこにいる?

 

ここ。

ここにいる。

 

ここってどこ?

 

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