巨大な二枚貝が、台所にいた。
子供の頃・・僕が3歳か、それ未満のときか・・
台所は家の北に位置していて、日当たりが悪く、昼でも暗く、その暗い台所の食卓の隣の台の上に、その貝はいた。
黒くて・・形はハマグリで、上から見ればA4ノートパソコンサイズ、ぐらい。
大きな貝だな、と思っていた。貝は水の中にいなくても大丈夫なんだ、と思っていた。この貝、いつ食べるんだろ、と思っていた。
暗い昼の台所で、そのとき僕は一人で、貝を触っていた。
貝の口を触っていると、貝が口を開いて僕の右手の人差し指を挟んだ。
「痛い!」
僕は叫んだ。泣きながら叫んだ。母親がこの窮状を見て、僕を助けてくれるのを望んでいた。しかし、母が駆けつける気配すらないうちに、いつしか指は貝の口から外れていた。
せっかく母親に助けてもらおうと思ったのに・・拍子抜けの独り相撲な感じだった。
それから僕は、その巨大な貝を触ることをやめた。そして貝はいつのまにかいなくなっていた。あの痛さは、今も覚えている。
あの貝は・・本当にいたのだろか。お盆になったら実家に行って、仏壇に線香をあげることになるだろうから、そのとき母に聞いてみようかな、と思う。
なぜだかそんな昔を思い出しながら、僕は包丁でキュウリを千切りに刻んでいた。昼飯には少し早いけれど、家にいる3人の子供たちと僕との昼飯を、用意してしまおうと思って、そうめんを茹でるべく、鍋に火をつけていた。
鍋の湯が沸騰する前に、キュウリを刻んでしまおうと思ってた。
しっかりと左手を猫の手に握ってはいなくて、飛び出た左の親指の爪がキュウリと一緒に刻まれた。かなり削がれた爪をみて・・この包丁、やっぱりよく切れるな、最近全然研いでないのに、と思った。
川越の蔵づくりの通りの刃物屋で何年か前に買ったものだが・・さすがだ、と思った。
爪と一緒に肉も削がれているのに、痛くない。
あの貝は、痛かった。研がれてなくてよかった・・そう思った。