『過去という未来』

眼に映るその景色なり光景なり・・それらは光の速度に応じた過去なわけで、人は「今」を観ることはできない。

 

しかし、眼に映る景色なり光景なりを人は、今、そうあるものとしてその対象をとらえている。夜空に光る何万光年もはるかな星の光・・・その星の過去の輝きを見ているにも関わらず、その輝きを人は、その星の「今」の輝きとして観ている。

 

つまり、「今」とは過去である。

 

・・という、科学という名の仮説・・本当は、眼に映るものは、光の網膜への到達を見越して、未来を送り付けてくれているのかも知れない。

 

何万光年先の未来の輝きを地球の僕に星は放ち、星の「今」を観せてきれているのかもしれない。

 

・・これも、仮説。

 

仮説・・しかし・・あらゆる真実は、相対的には仮説であり、主観に直観された仮説は、直観されたその本人にとっては、実証以前に、真実なのだ。

 

 

・・牛・・

 

一昨日の土曜の昼、日高の牧場(北海道の日高ではない)で僕は白黒まだらの、いかにもな乳牛を観た。・・眼を閉じて今、僕は暗闇。・・暗闇にあの乳牛を映しだす・・暗闇のなかに、あの乳牛がいる・・あの牧場の、あの乳牛が、一昨日の昼と同じ姿で存在している。

 

 

闇のなかの乳牛・・土曜の乳牛・・

 

あの、一昨日の土曜という過去は、過去ではなく実は未来で、一昨日の土曜という「未来」から、乳牛は今の姿を観せに、僕の暗闇に映り込んでいるのかもしれない。

 

・・今、窓の外を眺めれば、暗い深夜。しかし、日高(北海道の日高ではない)の牧場は今、昼らしい。