昔、ヘーゲルが好きで・・よく読んでいたわけです。ダメダメな現実、今の自分。その自分のダメダメの根拠を自分で見つけないと、自分は浮かばれない・・みたいに思っていたときに・・なにかにすがりたい・・

 

教会に行って懺悔でもすれば、救われた気持ちになるのかな?なんて思いながら三浦綾子の自伝小説を読んだりして・・きれいすぎる・・欲深な俺にはこの世界は無理だ・・

 

・・ふと、自分で買ったわけではなくて、とある人がとあるところに残していったものを僕がもらったことにした中公新書の「ヘーゲル」が僕の本棚にあったのが目に留まって、

 

「現実的なものは理性的である、理性的なものは現実的である」

 

その本にはヘーゲルの言葉のひとつとして、この言葉が書いてあって・・

 

この、「現実的」っていうのは、人間、人間社会、その人の現実・・そういうのを指していて・・「理性的」っていうのは神、神的なもの、世界を生み出す動力っていうか、そういうのものを指すんですけれど・・

 

今の俺・・ダメダメな俺・・それは理性が生み出した必然・・であるがゆえに・・

 

「これでいい」って思えた。28年前、かな。

 

ヘーゲルは3っていう数字が好きらしくって、美しい、みたいに言ってて・・

 

人は個人として1・・この1は、2を含む1であるがゆえに3である。

 

たとえば、お父さんとお母さんの生殖によって生まれた1としての個人は、1でありながら2を含んでいる。1(父)と1(母)が2に留まらず、その生殖によって生み出された2を含む1であるがゆえに、この1は3である・・わけです。

 

あーしたらいいのかこーしたらいいのか・・人は葛藤するわけですけれど・・

 

葛藤抱えた1、なわけです。人間は。

 

あるいは、あのときあーしてれば、というタラレバ抱えながら、タラレバの幻想とそうでない現実を両輪として生きている「私」はその両輪があるがゆえに進めるわけです。

 

3・・だから僕は自分を見るがごとく、太陽(SUN)を見る。

 

江原啓之を有名にした佐藤愛子さんの「障り」を解いた相曾誠治さんは、太陽にアマテラスがいる、って著書で言ってる・・

 

太陽は西洋占星術では数字的には1に対応しているらしいが、1は2を含んだ1であるがゆえに、3でありSUNである。僕は個人として1でありSUNである。僕は太陽である。すべての個人は太陽でありアマテラスである。

 

太陽を見る。太陽を吸い込む。アマテラスを吸い込む。自分を見て自分を吸い込む。