情緒・・ユング的な心理機制のカテゴリー、その「意志」「思考」「感情」「感覚」っていう4つの区分けに従う言い方で言えば、「感情」になるのかな・・
別に僕はユンギニアンではないんですけれど・・
情緒・・人間の感情・・感情っていうのは・・その人間が纏っているものであり・・
情緒・・
纏ってるマント・・みたいな。マントってるマント、
・・ちょっとしたダジャレな感じで、人間は纏っているのと同時に・・・環境・・下町情緒、とか・・環境にもあるもの・・なわけだけれど・・
この情緒っていうのは、クセモノなわけです・・クセモノは、「曲者」って書くけれど・・クセモノなわけです・・反応しちゃう
自分が纏ってる情緒と、環境の情緒が・・反応しちゃう
「反応」には力学的な関係っていうのがあって・・たとえば自分の情緒が環境の情緒より弱いと、環境の情緒に自分はやられてしまう・・
その場合、自分の情緒の状態を、どれだけ守ろうとしても、ダメなわけです・・抽象的な言い方、ですけれど・・
ちょっと具体的に言えば・・アスリートにしても、あるいは、音楽の演奏家とかも、だけれど・・
どんだけ練習しても、その練習においては、完璧になれてても、実際の本番になると、ボロボロになる・・そういうのは、結構あるわけで・・それは、練習環境と本番環境が異なるがゆえに引き起こされる心理現象であり、環境現象でもあるわけなんですけれど・・
練習しているとき・・そこにはそこの、環境的情緒があって、その環境情緒に、自分が纏っている情緒が融合して・・融合すればうまくいっちゃう・・
うまくいっちゃう・・これがクセモノなわけです。
うまくいってる・・と思っちゃう・・それ、情緒に飲まれてる状態なわけです・・本番もいけるだろうって、錯覚しちゃう。
本番は、環境情緒が変わる・・
崩壊するわけです。
練習で自分の情緒と環境の情緒が融合して・・ある意味、気持ちよくうまくいっていた状態・・環境情緒と自分が纏ってる情緒の融合・・それは、崩壊するわけです。本番では崩壊する。
・・当たり前だろ、って言われそうではあるけれど。
・・どんなに頑張って、すごく力をつけても、情緒に飲まれた練習していることに、意識的になってないと、本番じゃ、ボロボロになるわけです。
情緒は、ある・・人間は、常に纏っている・・でも、それは、錯覚の脆さ、なわけです。
くどくなってきているけれど・・練習でうまくいってる・・本番も、この状態を出せればうまくいく・・いかないわけです・・情緒はクセモノ・・曲者・・すぐ曲がるわけです。
情緒、クセモノ、すぐ曲がる?・・書いてて意味、僕わかんない・・
で・・
纏ってる情緒・・情緒を纏っているのは「自分」なわけです・・
「自分」という中心があって、その周囲に、情緒があるわけです。
情緒に飲まれている自分に意識的になるっているのは、「自分」から「情緒」を見つめようとするっていうことなんですけれど・・
その「自分」っていうのは、どこにあるのかって言えば・・自分の中にあるわけです。
自分が自分の中にある?・・なんか言い方、変だな・・
自分っていうのは、言い換えれば、「無」なわけです。
人間は、常に情緒を纏っている・・でも、その情緒に飲まれてしまっている状態は・・よく言う言い方にはなるけれど・・自分を見失った状態・・ちょっと言い方を変えれば、自分から離れてしまっている状態、なわけです。さらにちょっと違う言い方っていうか、ほとんど変わらないけれど、的確な感じで言えば、自分っていう中心を失っている状態。
さらに、な感じで言うと、「無」を失っている状態。
自分は「無」なわけです・・「無」を見つめて、情緒を感じる・・それが、情緒に飲まれている状態からの、自分の回復にもなるのだけれど・・
「自分」は誰でも持っているわけです・・誰でも「無」を持ってる。
自分の別名としての「無」を、誰でも持ってる。
言い方くどい?かな。
・・・じゃあ、
どこに持ってるの?
どこにあるの?
情緒の真ん中にあります。情緒は肉体を覆っている・・肉体を覆った情緒の、その真ん中。
見えないけれど、見える、意識の中心が「無」です。
「無」は情緒の・・纏っている情緒と環境の情緒の、その力学関係に、左右されない、です。