この世の課題・・ちょっとずつ克服したいな

この世に生まれてきた・・それは、魂の限界の克服のために、自分に課題を与えて、この世に生まれ落ちた、わけです。完全に限界を克服したなら、100万回生きた猫、のごとく、もう、この世には、生まれ落ちない。

 

単純な言い方ですけれど・・そうなわけです。輪廻・・その過程に、僕たちはいる。限界だらけの人間、至らなさだらけの人間が、この地球上にいるわけです。限界だらけ、至らなさだらけ、の人間しかいないわけです。

 

どんなに、立派な人でも・・

 

人は、神性と繋がりつつも、神ではない。神を名乗ったり、神と自分はコンタクトとれる、なんて嘯く人は、喩えその人間の周囲に人が集まっていて、その人に帰依する人にその人が支えられていても・・その人は、詐欺師です。ま、そういう存在に、僕も少し、憧れたりはするわけなんですけれど・・

 

限界・・それってなに?・・

 

欲望・・とか、そうなわけです・・ただ、欲望を超える・・それは、欲望の中に入って超えていく・・それが大事で・・欲望世界から離れて・・欲望を否定する生活の中からは、欲望は超えられない・・

 

欲望という心の喧騒の中に、静かさを見つける・・その旅・・心の旅が必要なわけです・・

 

なんか、僕、説教者みたくなってきているけれど・・そうなわけです・・

 

たとえば・・タロットの大アルカナの悪魔のカード・・

 

僕はマルセイユ版を、占いのときは主として用いさせてもらっているのですけれど・・ライダー版においても・・男女・・欲望の鎖に繋がれているわけです・・

 

悪魔のカードは「山羊座」との関係が指摘されるカードですけれど・・山羊座は、・・・話が演繹し過ぎそうなので、ちょっと、止めます・・

 

このカードは、真実の扉の前に至るためには、欲望の世界を避けて、そこに至ることはできない・・たとえばひとつの解釈として、そういうニュアンスを持っているわけです。

 

喧騒の中に、静かさ・・欲望の中に、狭き門・・それを見つける旅に出立するアダムとイブ・・なわけです。

 

つまりは、限界を超える、とは、否定ではなく、中に入ってそこに、限界超えるべき何かを見つけること、になるわけです。

 

では、限界とは・・肉体と心・・です。言い換えると、下位エーテルと、アストラル・・感覚と感情・・なわけです・・

 

たとえば、脳という臓器がある・・人間とは脳である・・そう、言う人もいるけれど、それは間違いで、人間は、全身が脳であり、肉体としての全身をも包む、感情としての脳がある。

 

感覚脳、感情脳・・これら脳に、人間は支配されている・・

 

感情にしてみれば・・気分を損なった・・気分を損なわされた・・そういう出来事が、日常に生じる・・

 

今、僕の高校生の娘、高校で、とあることをやらかして、自宅謹慎の日々を送っています。

 

学校から、反省文と、日々の日記を書くことを言われ、書いてたわけです。

 

娘の書いた日記、読んだわけです・・僕・・

 

「・・・・っていうこと、ありますよね。」

「・・・・と思ったんですよね。」

 

「ね」・・そしてピリオド・・

 

僕、言ったんですよ・・ブログ書いてんじゃねえんだよ。承認欲求してんじゃねえよ・・

 

心象害するわけです・・読んだ学校の人間は・・反省してんのか?ってなる・・なめてんのか?ってなる・・ま、娘は、なめているんでしょうけれど・・

 

僕は言ったわけです・・なめるんだったらちゃんとなめろ・・

 

学校の人間には、学校の人間としての見栄がある・・その見栄に対して、手懐ける書き方で書け・・学校は、生徒より目上だという見栄の意識がある・・そこを、手懐けろ・・

 

要は、あるべき書き方にのっとれ、っていう、つまらない結論に至るわけですけれど・・

 

へりくだって・・表向きへりくだって、心の中では、なめろ・・

 

学校の感情を手玉にしろ・・なわけです。

 

感情を手玉にする・・これは、この感覚と感情が支配するこの世界において、そこに理性の目を、自分に養うことになるわけです・・

 

感情という泥に、ロータス咲かせる・・ことになるわけです・・

 

なんか、それ・・いいの?

 

思われちゃうかも、ですね・・人の感情を手玉にして、自分の利益を得る・・まるで詐欺師・・

 

いいんですよ・・詐欺師にとどまらず、更に自分の限界、超えて行こうとするならば・・