『占星術の基礎 その③』・・ニセモノを超える

隠秘とか神秘とか密秘とか・・

 

オカルトとかエソテリックとかミステリーとか・・

 

言い方さまざまだけれど、占星術は、隠された真実を告げる。

 

占い師も、霊能者も、オカルティストなわけです。

 

オカルト・・オカルティスト・・世の中、この言葉、いいイメージないけれど。

「それはオカルトだね」みたいな感じで、暗に「科学じゃないね」を含んだ、

蔑まれのニュアンスで、使われたりする言葉。

 

ただ・・本物の科学者はオカルティストですけれどね。隠された真実を、本物は、発見したり発明したりする。それがモノとしでであったり、方程式としてであったりしても。

 

本物は、隠れてる。真実は、隠れてる。だから、本物はなかなか見つからない。真実は、なかなか見つからない。ネットで検索しても、出てこない。

 

本物の占い師、本物の霊能者・・本物は隠れているわけです。

 

三河島の駅から、吉原とは逆方向に歩いて、あ、ここか、ってたどり着いた、その当時ですら、第一印象的に、随分築年数経ってそうだな、って思った、モルタル外壁のマンションの、鉄の玄関扉を開けると、その先生は、僕を迎え入れてくれて、そして、一時間、ずっと、喋りっぱなし。

 

口コミ・・その時代、インターネットが人の生活に侵入する、そのまだ、黎明の時期で、一部の人が、パソコン通信とか、してたりの時期で・・ネット用語的な意味での口コミ・・とは違う、本当の意味での口コミでしか、人を見ない先生、だったのだけれど。

 

一見(いちげん)さんは見ない、っていうんでしょうか。見てもらった人の紹介じゃないと、観てもらえない・・

 

玄関から直、キッチンの間取りで、キッチンを通って奥の客間に通されて・・

 

別に僕は、なにかを相談したかったわけではないんですよ。その頃付き合い始めた女性が、付き合う前に、僕のこと、その先生に見てもらったみたいで。で、流れって感じで「じゃ、俺も見てもらおうかな」

 

電話して、二週間後に予約が取れて。

 

一時間、ずっと喋りっぱなし。別に、一時間ずっと、喋れますよね。ただ、その喋ってる中身が、全部、霊的に見えてること・・すごかった。当たるも八卦当たらぬも八卦、じゃないわけです。

 

僕の日常、僕の父親の過去の病気のこと・・その他・・僕すら気づいていなかったこと、忘れていたこと・・パーフェクトに見えてる。

 

先生、自分の右肩を左手で抑えながら「あなたのお父さん、5年前に病気したでしょ」

 

「え?いや?どうなんだろ・・覚えてないです」

 

一人暮らしの部屋に帰って実家に電話して・・携帯が普及する前の時代でしたから・・「5年前、病気した?」と父親に聞くと、

 

「お前、見舞いにきたじゃねえかよ」

 

「右肩?」

 

「そうだよ」

 

・・・・・・

 

その先生には、見えてるわけです。見えない真実が見えてる。日常、俗に染まって、金とセックスと自己顕示への欲求だけに支配されている僕が見えてないものを、先生は、見てたわけです。

 

すげえ・・思いました。

 

全然有名ではない。今、その先生の名前をネットで検索しても、全く出てこない。隠れてる。本物は、隠れてる。真実見つけるの、難しいのとおんなじで、本物を見つけるのは難しい。

 

その先生は、見えてることを、僕に伝えてた・・それは、先生の真実を伝えてた。真実は、真似事ではない、その人の真実、なわけです。

 

他人の知識、見解・・それを、あたかも自分の真実であるかのように語る・・それ、流汎してますよね。誰もが、そうしている。

 

本物は、それをしないわけです。他人の真似事、二番煎じの見解・・真実とは無縁なわけです。見えてないことを、見えてるかのように語る・・本物には、意味がないわけです。

 

他人の真似事、二番煎じを一番煎じのごとく語る・・随分、僕もやってきましたよ。真実じゃないこと。随分、ニセモノの自分を作ってきた。

 

占星術の基礎 その③・・ニセモノを超える、です。