お客さんではないけれど、昨夜、路上に出ていて、一人の女性と長話になっていて、そしたら警察官二人が、僕を見下ろすように近づいてきて、
来やがった、みたいに僕、思ったのだけれど。
女性は、魔の悪さと怯えを表情にして、その場から去って、
・・警察官がその時来た、その霊的意味は、あると思うのだけれど、それはさておいて、
「ここでやってるの、見ないですけど」と警察官。
(いや、最近ここ、結構出てるけど)って思いながら、僕は警察官の質問に
「前はあっちでやってたんですけど、ヤクザの人が来て、『ヤクザのメンツがあるから、ここじゃやんないでくれ』って言われて」
「あっちはヤクザのメンツかもしれないけど、こっちは警察のメンツがあるんで」
メンツ・・縄張り意識でもあり、拡張された自我そのものでもあるけれど。
存在誇示、とも言いかえられるわけで、では、その、「存在」っていうのはなんなのか、っていうの・・それは、神学の世界では、神なわけで・・近代、デカルトは「思惟する自分」つまりは「エゴ」に置き換え、マルクスは、「神が人間を作ったのではなく人間が神を作った」と言ったフォイエルバッハを、人間規定におけるその抽象性を批判しつつ、存在を「社会的諸関係」と規定した。
かなり、大雑把な言い方、僕、しているけれど・・
つまりは、存在は、この世界の第一原因として、その規定のありようは、哲学的に議論され続けていて、その議論は、物理学にも反映されているわけだけれど。
存在とはなにか・・その問いは、自分を問うことで見えてくる。
自分とはなにか。
そして、その問いは、続けなければならない。そう思います。五感で感じるこの世界の一部である自分は、この五感世界の変容に応じて、自分も変わる。そして、霊的世界の一部、あるいは、その波動の中の一つの波動である自分は、霊的世界の変容とともに、変わり続ける。
自分とはなにか・・OSHOの瞑想的な問いかけの言葉を言えば、
私とは誰か。