本物の占い師、とは

この「はてなブログ」っていう ネーミングの意味は知らないけれど、すべての「はてな」に答えるのが占い師の仕事で、答えられなかったら、負けなわけです。

 

「戦争論」を残したクラウゼヴィッツは、ナポレオンに戦争で負けた、その経験の総括として、その著作、書き始めたわけだけれど、その意味では、負けた軍隊よく学ぶ、とは、クラウゼヴィッツには、いい意味で、当てはまる言葉、だけれど、

 

そんな感じの、学ぶ経験としての「負け」

 

占い師には許されない。

 

で、「はてな」っていう自問自答的な感じの質問を、僕が自分に投げかけてみるならば、僕はなんで、路上で占いをしているのか。

 

デパートとかにある占いブース、あるいは電話、チャット、メール・・そういう感じで、占い師の居場所は、所々にあって、

 

ちなみに僕は、それらすべてを、経験してきているけれど、路上の生身感に優れるもの、ないわけです。

 

占いブースも、あるいは電波介したやりとりも、基本、空間的に占い師は保護されている。その環境のなかで、占い師としての感は、研がれない。と僕は思うのです。

 

なんの保護もない、あるいは、ヤクザ用語かも、だけれど、ケツ持ちのいない状態のなかで、ただ、路上に座る。その、座ることに、意味があるのです。

 

どういう意味か?

 

たとえば、仏教・・鈴木大拙先生の「日本的霊性」っていう著書によれば、日本の霊性を歴史上、まず体現したのが、親鸞だって、言ってる。京から越後に移住を強いられるなかで、ひたすら、鍬を振り続けた日々。そして、寺としてのをかまえず、草庵をもって、そこを拠点にした。

 

親鸞がそうであったように、占い師、たとえば今の時期の、とっても寒い、その風雪に耐えてこそ、占い師としてのスピリチュアル性が、研がれ、高まる。だから、北風よもっと吹け的な感じで、僕は、路上に出ています。

 

とある人・・とある人っていうか、OSHOだけれど、彼は彼のサイトで、占い師の99%は、インチキ・・みたいなこと、出している・・それは、真実です。なぜか・・風雪に耐えてないと、精神的な余分・・ある意味、ペルソナな自分が削がれていかないからです。ペルソナを剥いだ、その中に、残るものとして、個人がある。その個人をもって、占い師としてのスピリチュアル性を、どう高めるかが、問題になってくる。

 

占い師、自分ななかにある個人を感知できなかったら、その感知をできないままに発する言葉は、ペルソナ(仮面)としての言葉にすぎないものになる。ペルソナは嘘をつく・・でも、ペルソナに隠れた個人は、嘘をつかない。

 

嘘のない言葉で、全てに答える。誰も、守ってはくれないなかで。

 

研がれますよ。

だから、本物になろうと思うんだったら、占い師、まず、外に出ることです。すべての「はてな」に真実語れる、本物であろうとするなら、それは、修行ですから。